2004年04月のひとりごと


Columntakabayashi


私のつぶやき 雑言集


3人の人質が解放され、ホットしました。何か今回の大騒動は日本が世界に対して独り立ちするための一つの大きな経験のような気がします。まだ行方不明の日本人や他の国々の拉致された人々の解放や、これ以上、イラクの一般市民が殺害されないことを心から祈ります。
又、今回のイラクの問題については自衛隊云々ということよりも、狭い地域に存在する世界のエネルギー源である石油がある国のあり方、又、その石油をコントロールしている先進国の少数の人たち、キリスト教とイスラム教という昔から戦いのあった歴史、日米安保を捨てきれる勇気があるか等々、広い視野で私なりに考えていきたい。


● 平面計画と空間デザイン ●

現在、住宅の企画と医院のビル診企画が進行中である。医院の方はテナント内装と言うこともありでデザインのみの依頼であったが、平面図を見、先生の診療内容を聞いて、診察営業を行うのに相当困難なことになることが読めたので少しの平面企画料をいただき平面計画し直した。建築以外の人が、建築平面図を読み切ることは大変と思う。

建物は3次元であるが情報は平面図や、立面図のように2次元で伝達される。いつか3次元の情報で伝達される時代が来ると思うが、そうなるにはまだ時間がかかる。建物設計とは空間設計をすることであるが、その中でも平面計画(間取り計画)は一番大切な要素と思っている。それの出来が良ければ一般的には大きな問題は生じない。もちろん人は3次元で建物を実際に認識するのであるから立面計画や空間デザインも大切ではある。

慣れた設計士は、正確ではないにしても3次元を頭に描きながら平面図を書いていると思う。もちろん正確さに掛けるので模型等で確認したりする。

余り、仕事で人が書いた図面を見る機会はないが、時には相当ひどい設計に出くわすこともある。しかし、人が設計しているからには、住めない、利用できない建物にはなっていない。人が通れない廊下や出入り口にない部屋があるわけではない。ただただ、相当不自由な生活、利用を強いられるであろうと想像するのみである。何度か2階へ頭が当たり相当かがまないと登れない住宅平面図を見たことはあるが。
相当前になるが、法律的な構造計算上はクリアしていても在来木造の構造的特質を無視した一級建築士の書いた木造住宅の平面図を見て、知らぬ顔を決め込むか一生懸命説明するか迷ったことがある。一生懸命説明することにしたが、説明が、竣工したときは建物はちゃんと建っているが、大きな台風や大きな地震の時は建物に被害が生じる可能性が高いと説明するが、どの程度の地震で、どの程度、どの部分が壊れるか説明はできないから何ともやりきれない。
建築平面図を読み切れない建築以外の人に不都合を分かり易く説明するのは難しい。改良した場合にどの程度良くなるのかも数値で出せない以上理解してもらうのは難しい。試作品を作る訳にもいかず、実験もするわけにもいかないから、ただただ、私を信じてと言いたくなる。本音は関わりたくないな・・・という不謹慎な気持ちが奥底にはある。又、説明された方も戸惑うばかりで静かだった私の仕事ではない住宅計画に大波を生じさせた訳だし後味が良いわけでもないが、黙っている方がずっと悩む。

でも、いつも思う。間違いを犯すかもしれないが、自分の前にきたものは何らかの縁であるから逃げずに自分のできる範囲で対応したいと思うようにしている。建築という仕事をしていて、いろんなことはあるが、会社にいる時代と違い建築主と良い思い出ができることを感謝している。


[2004.04.16]




私のつぶやき 雑言集 


イラクで日本人が拉致された。高い理想のもと、相当の覚悟でイラク入りされたことに敬意を強く感じているとともに、無事な帰還を心より祈ります。
現在の世界情勢、日本の置かれている状況、日米安保、北朝鮮問題、世界大戦の戦後処理、自衛隊等々の問題が複層的に頭の中を動き回っていますが、ここでは意見は差し控えます。

● 桜舞う川縁を散歩して・・・ ●

正直、憂鬱である。
今日は、天気も良く桜のきれいな川縁を6km程度散歩した。少し強い風に川の両側の桜の花が川の上を自由に大きく舞い、川面の花びら群は静かに静かに流れている。珍しくラジオも聞かず何も考えず歩いていると、前から小学生の女の子が屈託なく目を輝かせながら、その桜の花びらを捕まえようとして虫取り編みを細かく振り回しながらスキップしながら走ってきた。そんな様子を見ていると、紆余曲折はあるにしても人間の明るい未来を信じることができる。

私の子供の頃はテレビはなかったしエアコンもなかった。車もほとんど見かけなかった。今や車が一人1台の時代になってきている。その川縁は車が通れない小道なので、のんびり考えながら散歩できるが一般の道ではそんなことはできない。科学が発展して便利になったが考える時間を奪われたような気がする。少し前までは「便利さ」が人の後ろの方を走っていたが、いつの間にか「人」が「便利さ」に追い抜かれ、「便利さ」に人が追い回されて忙しい目に遭っている気分である。情報も瞬時、それも加工されない生々しい情報を、そして、ガラス張りに近い状態で瞬時に判断しなければいけない時代に突入している。判断を間違えると、十分な時間と技術で科学的に検証され、その責任の是非を問われる。ストレスが多い時代と思う。

少し、不便さの良さが見直されて良い。例えば、車は点と点を結ぶ。線は考え方として不要なものである。家と大型スーパーを車で行く、途中に商店街があったとしても無視される。すなわち「線」としての商店街は車という距離をものともしないものにより、魅力がなければ廃れていく。「効率的」ではあるが「寄り道が」ない。目的の場所は、よく知っているところか、良く調べている場所なので、新しい発見や、驚きや、意外性のある経験も期待できない。歩けば良いと言うのではないが、「効率的な生活」だけではなく、無駄なこともそれなりに楽しむ暮らしをしたいものである。

あの、人間の持つ暗い部分も文字にしてしまった16世紀の哲学者モンテーニューの本を読んで、当たり前のことかもしれないが科学は発展しても人間の資質は変わらないと思った。だから、憂うこともないし、たとえ自分の時代、自分の廻りに強い明るさが訪れなくても明るい未来を信じて、自分のできる範囲で切磋琢磨して生きていきたいものである。


[2004.04.10]


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